経営権を巡る兄弟間の争い(一澤帆布工業)
背景
一澤帆布工業は1905年(明治38年)に創業した、京都で100年以上の歴史を持つ会社です。
創業初期は、丈夫な帆布をつかって、大工の道具入れや牛乳の配達袋を作る仕事をしていました。転機が訪れたのは、信三郎氏(4代目)が社長のときです。日常で使える鞄としての魅力を高め、多くの人から支持されるブランドになっていきます。家業を継いだ際に10名ほどだった社員は70名を超えるまでに成長を遂げました。
対立
そうした中、2001年に信三郎氏の父親である信夫氏(3代目)が他界します。このとき、2つの遺言書が出てきたことが、のちの兄弟間対立のきっかけとなっていきます。会社の顧問弁護士が預かっていた遺言書(以下、第一遺言書)には、「株は現社長である三男にわたす」と書いてあり、当時銀行員だった長男が持ってきた遺言書(以下、第二遺言書)には、「株は長男と四男にわたす」と書いてあったのです。
相反する内容だったことから、「株は自分に相続されたものだ」「相手の持つ遺言書は無効だ」とお互いに主張し合い、法廷の場で争っていくことになります。
裁判
信三郎氏は訴訟を起こし、争いは最高裁への上告受理申立てにまで及びました。しかし2004年、申立ては不受理となり、敗訴が確定します。判決理由は、より日付の新しかった第二遺言書の方が有効とされた為です。その結果、会社の株式の大半は長男の手に渡り、信三郎氏は社長職を解かれてしまいます。さらに追い打ちをかけるかのように、裁判所による立ち退き命令が下され、お店と工場についても完全に明け渡すことになりました。信三郎氏はやむなく、自分の新しいお店として「信三郎帆布」を構えることを決断します。その際、一澤帆布の従業員の多くが退職し、信三郎帆布についてゆく事態となりました。
長男も会社は手に入れたものの、鞄の製造に行き詰まり、当面の休業を余儀なくされます。
帰結
その後も、信三郎氏側は争いを続けました。一度は会社を離れることになったものの、第二遺言書そのものの有効性を改めて問い直したのです。そして2009年、事態は大きく転じます。
第二遺言書を無効とする高裁判断が、最高裁で維持される形で確定しました。専門的な筆跡鑑定などの総合的な判断の結果、第二遺言書は信夫氏の自筆によるものとは認められないとされたためです。
これにより、信三郎氏を社長から解任した株主総会決議も取り消されることになりました。
8年という長い歳月を経て、信三郎氏はようやく名実ともに会社を取り戻すことができたのです。
【教訓】
①引き継ぐべき2つの椅子
信三郎氏は20年以上、社長として働き、その間に会社を大きく発展させました。仕入先も取引先も従業員も、信三郎氏こそが会社の実権者と見ていたことでしょう。しかし法律上、会社の重要事項を決める最終的な力は、株式にあります。後継者に確実に会社を引き継ぎたいなら、経営者の椅子だけでなく、所有者の椅子も渡しておく必要があります。代表取締役という立場と、自社株式による支配権。この二つがそろうことで、後継者はより安定して会社を守ることができます。
②自社株式の承継を相続任せにしない
複数の遺言書の内容が抵触する場合、その抵触する部分については、後に書かれた遺言が優先されます。そのため、作成時期、筆跡、本人の意思能力などをめぐって争いになることがあります。遺言はあくまでも万が一のときの保険、とお考えください。自社株式はオーナー様がお元気なうちに、計画のもとに引き継ぐことが望ましいです。
③身内で争う代償は高い
経営者の時間、精神的な消耗、裁判費用、ブランドイメージの低下は、簡単に取り戻せません。子どもたちが争うことを望む親は、まずいないでしょう。けれども、オーナー家の相続では、財産の中心に自社株式があるため、完全な平等を実現しにくい場面があります。そのため、お元気なうちに方針を決め、後継者に何を渡し、他の相続人にどのように配慮するのかを整理しておくことが大切です。兄弟姉妹は、近しい関係だからこそ、いったん対立すると単なる金銭の問題では収まりにくくなります。
